【現代文】読解練習問題/随筆 #1

現代文
スポンサーリンク

大学受験向けの、現代文練習問題です。手持ちのテキストをやり尽くしてしまった方や、とにかく問題演習をこなしたい方におすすめです。

  • ジャンル:随筆
  • 難易度:標準程度
  • 出題形式:選択式、記述式

問題、解答、解説の順に記載しています。

ページの最後に、印刷してすぐに使えるプリント(pdfリンク)があります。

スポンサーリンク

問題

次の文章を読み、後の問いに答えよ。

絵葉書を買うという行為には、どこかあらかじめ失われることが約束された時間を強引に閉じ込めるような、後ろ暗い情熱がヒソんでいる。

旅先で立ち寄った古びた文房具店や、見知らぬ街の美術館の片隅で、私たちは熱心に絵葉書を選ぶ。そこにはその土地の最も美しい一瞬、たとえば夕日に染まる運河や、完璧な構図で切り取られた大聖堂の威容が印刷されている。しかし、私たちはその絵葉書を手に入れた瞬間、奇妙な逆説に直面することになる。私たちがその街で本当に心震わせたのは、そのような「お仕着せの絶景」ではなかったはずだからだ。

むしろ、旅の記憶として私たちの肉体に深くカザりなく刻み込まれるのは、ガイドブックには決して載らない、名もなきノイズの側である。不意に路地裏から吹き込んできた、微かに生魚の生臭さを孕んだ風の冷たさ。言葉の通じない市場の店主が、お釣りを渡すときに一瞬見せた、無愛想だが温かい手差しの仕草。あるいは、異国の安宿の天井で、規則正しく回り続けていた古い扇風機の低い羽音。それらの断片は、カメラのレンズを向けるにはあまりに些細で、他人に語るにはあまりに個人的すぎる。だからこそ、それらは誰にも共有されることなく、私たちの内面でひっそりと熟成され、固有の「風景」となっていく。

それなのに、なぜ私たちは旅先で絵葉書を買い、あるいはスマートフォンのカメラで「分かりやすい象徴」を必死に採集しようとするのだろうか。それは、私たちが「忘却」という時間の暴力に対して、あまりにも無力だからだ。私たちは、旅の最中に味わっているあの鮮烈な生の実感が、日常という巨大な磨耗のシステムの中に引き戻されたトタン、砂のように指の間からこぼれ落ちていくことを予感している。絵葉書を買うという行為は、その恐怖に対する、ささやかな、そしていささか絶望的な抵抗に他ならない。

かつて、ある高名な写真家が「写真を撮るということは、世界を肯定することだ」と述べたが、私はその言葉に半分だけ同意し、半分だけ首を傾げる。写真を撮ること、あるいは旅の記録を残すことは、目の前にある世界を愛おしむ行為であると同時に、それを「過去」という標本箱に閉じ込めようとする、人間の傲慢なエゴでもあるのではないか。記録された瞬間、その風景は生きたダイナミズムを失い、静止した「情報」へと変質してしまう。

数年前に訪れた、瀬戸内の小さな島での記憶が、今も私の脳裏に焼き付いている。その日はひどい土砂降りで、楽しみにしていた瀬戸内海の多島美など、煙る霧の向こうに完全に没していた。私は予定を狂わされ、錆びついたトタン屋根の待合所で、ただ次の船を待っていた。雨粒が屋根を叩く凄まじい音が、狭い空間にハンキョウしていた。

その時、地元の人らしき老人が一人、ずぶ濡れの傘を畳みながら入ってきた。老人は私を一瞥すると、ポケットから歪んだ形のミカンを一つ取り出し、「食べな」とぶっきらぼうに差し出してきた。剥いた皮から弾けた、センレツな酸っぱい匂いが、雨の湿気た空気の中に広がった。二人で無言のままミカンを口に運んだあの二十分間。そこには旅のロマンティシズムなど微塵もなかったが、私は確かに、自分がその世界の「皮膚」に直接触れているような、奇妙な充実感を覚えていた

東京の、いつもの無機質なオフィスでデスクワークに追われているとき、ふと、あの待合所のミカンの匂いが蘇ることがある。手元には、その島のみやげ物屋で買った、青空が広がる美しい島の絵葉書がある。しかし、その絵葉書を見つめても、私の心はあの島へは戻らない。私の心を揺さぶるのは、絵葉書に印刷された記号化された美しさではなく、あの雨の音であり、ミカンの酸味であり、老人の濡れた上着の匂いなのだ。

私たちは日常を生きるために、多くの感覚を麻痺させている。そうしなければ、都会の過剰な情報と速度に精神が押しつぶされてしまうからだ。旅とは、そのように固く閉ざされた私たちの五感の表皮を、異物との衝突によって無理やり剥ぎ取るプロセスなのだろう。そして、旅から持ち帰るべき真の土産とは、絵葉書のような記録ではなく、日常の景色の中に潜む「名もなきノイズ」を再び感知できるよう進化した、私たち自身の瑞々しい身体そのものなのである。

スポンサーリンク
  • 文中の傍線部A~Eのカタカナを漢字で書きなさい。
  • 傍線部①「絵葉書を買うという行為」に対する筆者の視点として、本文の内容と合致するものを次から選びなさい。
    • 日常のシステムによって引き起こされる忘却に抗い、旅先での鮮烈な生の実感を、色褪せない過去の標本として保存しようとする試み。
    • お仕着せの絶景に心震わせた記憶を呼び戻し、過剰な情報と速度に追われる都会生活において五感の表皮を保護するための手段。
    • メラのレンズが捉えきれなかった名もなきノイズの側を、美しい大聖堂や運河のイメージへと置き換えて再現する表現活動。
    • 失われることが約束された時間の中で、その土地の生きたダイナミズムを静止した情報へ変質させることによって、日常を肯定する行為。
  • 傍線部②「それらの断片は、カメラのレンズを向けるにはあまりに些細で、他人に語るにはあまりに個人的すぎる」とあるが、筆者がこのように表現する「旅の記憶の断片」に関する説明として、最も適当なものを次から選びなさい。
    • お仕着せの絶景とは異なり、個人の内面でひっそりと熟成されることで、他者と共有可能な固有の風景へと昇華していく性質を持つもの。
    • カメラのレンズで捉えるような一般的な構図には収まらない、日常のオフィスワークにおけるノイズとして処理されるべき記憶。
    • ガイドブックに掲載される情報からはこぼれ落ちてしまうような、身体的な五感の働きと深く結びついた、言語化しがたい個人的な経験。
    • 時間の経過とともに砂のように風化してしまうため、スマートフォンのカメラなどの象徴的な記録によって補完せねばならない記憶。
  • 文中の傍線部X~Zの語句について、本文中における文脈的な説明として最も不適当なものを次から選びなさい。
    • 傍線部Xの語句は、都会の過剰な情報や速度によって、人間の鮮烈な生の実感や瑞々しい感覚を次第に失わせていく日常の性質を表している。
    • 傍線部Yの語句は、世界が持つ生きたダイナミズムを、人間の都合に合わせて過去の記録という静的な情報の中に閉じ込めようとする態度を批判している。
    • 傍線部Zの語句は、都会での過剰な刺激から自らの精神を守るために、現代人が無意識のうちに作っている、外部のノイズを遮断する感覚の防壁を意味している。
    • 傍線部X~Zのすべての語句は、都市生活における感覚の麻痺を解除し、異物との衝突を避けることで精神の安定を維持するための防衛手段を指している。
  • 傍線部③「奇妙な充実感を覚えていた」とあるが、その理由として最も適当なものを次から選びなさい。
    • 天候によって予定を狂わされ、美しい多島美を消費する観光は拒まれたものの、雨の音やミカンの酸味といった、予期せぬ生々しい感覚を通じて世界と地続きになれたから。
    • トタン屋根の待合所という無機質な空間において、言葉を交わさずとも通じ合える地元の老人との出会いを通じ、パッケージ化されていない旅の醍醐味を発見できたから。
    • 都会のデスクワークで麻痺していた五感が、土砂降りの雨という異物の猛威と衝突したことで刺激され、旅先ならではの非日常的な情緒に浸ることができたから。
    • みやげ物屋で買った絵葉書の美しい青空とは対極にある、凄まじい雨の音や老人の濡れた上着の匂いに、記号化された美しさを超える芸術的な価値を見出したから。
  • 筆者が主張する、私たちが「旅」をすることの本質的な意義とはどのようなことか。「日常」「五感」という二つの言葉を用いて、五十字以内で説明しなさい。
  • 本文全体の展開や表現の特徴に関する説明として適当でないものを次から選びなさい。
    • 第1・2段落において、旅先で絵葉書を選ぶ行為の背後にある心理を分析し、「お仕着せの絶景」に対する筆者の懐疑的なスタンスを提示している。
    • 第5段落において、写真家の言葉を導入し、記録を残す行為が持つ肯定的な側面を評価しつつも、それが孕む利己的な側面を指摘して議論を深めている。
    • 第6・7段落において、瀬戸内の島での土砂降りの経験を対比的な具体例として挙げ、美しい絵葉書が持つ視覚情報としての優位性を論証している。
    • 結びの段落において、旅の土産についての一般的な通念を覆し、日常のノイズを感知する身体の刷新という、本質的な収穫へと論点を昇華させている。
スポンサーリンク

解答

  • A 潜  B 飾  C 途端  D 反響  E 鮮烈
  • 日常の過剰な情報から精神を守るために麻痺した五感を、異物との衝突によって瑞々しく刷新すること。(49字)
スポンサーリンク

解説

  • 省略
  • 第4段落において、筆者は人間が日常という磨耗のシステムの中で「忘却」していくことへの恐怖を抱いていると指摘し、絵葉書を買うことを「その恐怖に対する、ささやかな、そしていささか絶望的な抵抗」と定義している。また続く第5段落では、記録を「過去という標本箱に閉じ込めようとする行為」とも述べており、アはこれらの論理を過不足なく統合した選択肢となっている。
    イは、後半の「五感の表皮を保護するための手段」という記述が不適当。本文において、旅とは表皮を「無理やり剥ぎ取るプロセス」であり、絵葉書で保護するわけではない。ウは、本文に「ノイズを美しいイメージへ置き換えて再現する表現活動」などという絵葉書の芸術的分析は一切なされていないため誤り。エは、後半の「日常を肯定する行為」が誤り。写真家の言葉はあくまで「世界を肯定すること」であり、しかも筆者はその言葉に「半分だけ首を傾げる」と述べて、記録が世界を情報に変質させてしまう側面を警戒している。
  • 筆者は、ガイドブックに載らない風の冷たさや店主の仕草、扇風機の羽音といった「名もなきノイズ」こそが、人間の身体的な五感と結びついた生の記憶であると主張している。ウは、この「情報からはこぼれ落ちる」「五感と結びついた」という本質を的確に言い換えたもの。
    アは、後半にある「他者と共有可能な」という記述が、本文の「誰にも共有されることなく、私たちの内面でひっそりと熟成され」という説明と真っ向から矛盾するため誤り。イは、これらの記憶がオフィスワーク中に「ふと蘇る」ことで日常を揺さぶる大切なものであると中盤以降に述べられているため、「ノイズとして処理(排除)されるべき」とする点が文脈に合わない。エは、スマートフォンによる記録を筆者が「分かりやすい象徴の採集」として否定的に捉えているため、個人的な記憶をカメラで「補完せねばならない」とする論理の方向性が逆になっている。
  • 筆者は、都市生活における感覚の麻痺を「日常を生きるために精神が押しつぶされないための防衛手段」として説明しているが、旅の本質はその麻痺を「異物との衝突によって無理やり剥ぎ取る」ことにある。したがって、すべての語句が「異物との衝突を避けることで精神の安定を維持するための防衛手段を指している」とするエの説明は、旅が持つ「衝突による麻痺の解除」という積極的な意義を完全に見落としているため、明確に不適当と言える。
    他のア、イ、ウの選択肢は、日常による感覚の「磨耗」、記録に潜む人間の「傲慢」、都会の刺激を遮断する感覚の「表皮」という各語句の文脈的意味を、極めて精緻に解説した正しい説明文となっています。
  • 筆者は土砂降りのために「多島美」というお仕着せの観光(絶景の消費)を拒まれてしまうが、その不条理な状況だからこそ、雨の音やミカンの酸味という生々しい「ノイズ」に五感が開き、世界のありのままの姿(皮膚)に直接触れる充実感を得た。アはこの因果関係の構図を正確に捉えている。
    イは、後半の「パッケージ化されていない旅の醍醐味」という記述が誤り。傍線部を含む文で、「旅のロマンティシズムなど微塵もなかった」と明確に否定されています。ウは、後半の「旅先ならではの非日常的な情緒に浸ることができた」という点が不適当。筆者が得たのは受動的な「情緒」ではなく、世界の皮膚に触れるような能動的で生々しい「充実感」。エは、後半の「記号化された美しさを超える芸術的な価値を見出した」という点が文脈から外れている。筆者はその経験を自らの「生の記憶」として愛おしんでいるのであり、芸術としての価値を評価しているわけではない。
  • 最終段落の前半では、「私たちは日常を生きるために、多くの感覚を麻痺させている」という都会生活の弊害が述べられ、中盤では「旅とは、そのように固く閉ざされた私たちの五感の表皮を、異物との衝突によって無理やり剥ぎ取るプロセス」であると旅の意義が定義されている。この二つの要素を、「~ために麻痺した五感を、~によって刷新すること」という因果関係の形に整理してまとめることで、解答例のような「日常の過剰な情報から精神を守るために麻痺した五感を、異物との衝突によって瑞々しく刷新すること」という、本文の核心を突いた過不足のない制限字数内の文章が完成する。
  • 第6・7段落で語られる「瀬戸内の島での土砂降りの経験」は、晴天の美しい多島美を印刷した絵葉書(視覚情報)を見つめても心は戻らないが、あの待合所での雨の音やミカンの匂いこそが今でも自分の心を揺さぶる、という文脈で語られている。つまり、この具体例は「絵葉書(視覚情報)の限界」と「五感による生の記憶の優位性」を対比的に示すために導入されたものである。したがって、これを「美しい絵葉書が持つ視覚情報としての優位性を論証している」とするウの説明は、筆者の主張の本流と完全に真逆を向いているため、明確に不適当(正解)。
スポンサーリンク

ダウンロード

印刷してすぐに使えるプリントはこちら↓

コメント

タイトルとURLをコピーしました